2013年11月30日土曜日

第3回学習会の報告

第3回学習会の報告

 第3回目の学習会は東京経済大学教員の寺中誠さんによる「差別は禁止できるのか」というタイトルの講演会でした。約40名が参加し、法律・条約と差別禁止の関係について理解を深めました。講演内容の概略は次の通りです。

1 人権勧告とは何か

 差別行為やヘイトスピーチに対しては、国際法上は禁止・規制しなければならないが、日本には取締法や禁止法がない。条約上は、国際人権規約(自由権規約)19条および20条に規定されており、この中で、差別・憎悪の唱道は、表現の自由に対する特別の義務および責任、すなわち規制を伴うものとして明示的に禁止されている。

 また、先日、人種差別撤廃委員会より出された一般的勧告35においては、差別・憎悪の唱道は禁止だが、犯罪化は深刻なものにとどめるべきとし、制限的に適用するよう要請されている。ヘイトスピーチについても、行為それ自体だけでなく、社会的な状況などを踏まえることが要請されており、誰によって発され、どんな効果があったかを踏まえなければならず、形式的には扱えないことも合わせて明示されている。(*「一般的勧告」とは、条約の実施に伴う解釈として、委員会が提示するもの)

 条約と国内法との関係(条約の国内実施)については、日本では憲法98条(最高法規の規定)によって規定されているが、同条によると、国際法は国内法化されることになる。すなわち、国際法と国内法は二元論で別個の独立した存在だが、もともと憲法と条約は適合的(両者が適合しているとみなされる)という前提のため、条約は総合的にすべて国内法に組み入れられることになる。このことは、条約が違憲審査の対象ではないことからも明らか。また、「総合的に」ということの意味は、条約それ自体だけでなく、先に触れたような勧告や宣言、見解や原則、規則など、すべてを含むということ。

 安倍政権の閣議決定にある「法的拘束力がない」「実施義務はない」という点については、確かに形式的には拘束力がないと言い得るが、憲法98条から考えれば、「誠実に遵守」する必要があり、当然に条約上の規定を実現する必要があると考えることができる。

 ただし現実としては、「国家行政組織法」という法律が壁となっており、この枠組みの範ちゅうでないと行政が動けず、条約はこの法律の体系下には含まれないため、条約上の規定が実現されないという状況になっている。

 例えば、明石市において、「婚外子」にかかる違憲判決を受けて出生届の書式を変更した(出生届の婚外子欄を削除した)が、これに対して、法務省が「法令違反」として指導・是正させた。理由は現在の書式に反しているため。明石市は、憲法上の要請に沿って、人権条約を守ったが、法務省が無視し、条約よりも下位の法令レベルで却下されるという事態になった。

2 ヘイトスピーチと差別の規制

 ヘイトスピーチはかねてから表現の自由と衝突すると言われている。この点を整理して考えてみたい。差別規制の方法については、刑事法的規制、民事法的規制、行政的指導と国内人権機関による規制がある。

 刑事法的規制は、差別行為を犯罪として規定し、犯罪を予防し、また保護観察も適用できるようになるなど強力で、警察も動くことができるが、差別行為を具体的・個別的に設定することが困難。

 民事法的規制においては、不法行為(民法709条)として差し止めや賠償請求が可能となる。ただし、侵害された権利を特定する必要があり、また、日本では懲罰的損害賠償の制度がないため、再発防止効果が薄い。

 行政的指導とは、行政府のできる範囲で調整・指導すること。強制調査はできない上、「合理的区別」が認められてしまう点が難点。この点、他国では国内人権機関が積極的に動くことで、機能している。

 また、差別の態様についてもあわせて検討する必要がある。ここでは3つの態様にわける。

 ひとつは差別的攻撃で、京都の朝鮮学校の襲撃事件が代表的な例。第2に、行政での差別的取り扱いで、先に挙げたような行政書式における差別が例としてあげられる。第3は社会内の差別で、いじめや就職差別などが該当する。

3 国際人権基準とのかねあい

 表現の自由は重要な権利だが、そもそも人権は「絶対的権利・自由」と「相対的権利・自由」に分けられることに留意しなければならない。

 「絶対的権利・自由」とは、どんなことがあっても絶対に破られてはいけない権利・自由で、具体的には生命に関わるもの、とりわけ拷問の禁止や人身の自由が該当する。

 この点、自民党の改憲草案では、現行憲法にある「拷問は絶対にこれを禁止する」という条文から、「絶対に」を削除しており、拷問の禁止を相対的権利とすることを意図しているように考えることができる。「絶対に」は単なる修飾語ではなく、絶対的権利であることを宣言した重要な文言。

 「相対的権利・自由」には表現の自由が該当し、他に、知る権利や結社の自由などがあげられる。

 「相対的権利・自由」については他の権利との調整があり得るが、その場合、1立法によること、2目的の正当性・必要性があること、3目的と効果の合理性・因果関係があること、4手段の相当性があること(均衡のとれた手段か、権利侵害のない手段か)という4点が証明されて初めて認められる。すなわち、制限的でなければならないことが求められていると言える。

 現行憲法には「公共の福祉」という概念があるが、立法によっておらず、最高裁の判例と国会における答弁でその内容が明らかになっている。それによると、必要があるとき、合理的な限度で、かつ個別具体的に判断するとされており、手段については問うていないことがわかる。

4 差別は禁止できるのか

 まず、絶対的自由に対するものは刑罰を持って禁止するしかなく、これは人権条約上も明らか。各国の事例では扇動を処罰している(犯罪になるとしている)。範囲については、他人の権利を侵害している場合とし、また、立法の形式については、濫用できないようにする必要がある。

 ただし日本では、他国では認められている集団(属性)の権利は認められていないため、個々人の権利として構成されてしまい、特定の個人でなければ侵害が認められないことになってしまっている。集団(属性)の権利は法定されていないが、訴訟ができれば認められる可能性もある。

 いずれにしても、差別的取り扱いを禁止しても、差別のない社会はすぐには実現しない。各国ではこの点、国内人権機関が動いており、国や行政の監視という機能を果たしている。一方で、日本の法務省による国内人権機関の案は、各国の人権機関においては本来的には付属的な機能でしかない、市民に対する取り締まり機能のみで構成されていた。確かに場合によっては、そうした準司法的な対応もあり得るし、行政的な指導も可能と考えることはできるが、禁止・規制しても社会内の差別は終わらない。

 可能性として検討できるのは身分犯で、公人やメディア、学校の先生など、一定の立場や身分にある人の差別は禁止・規制するという構成。ただし、社内でのセクハラなど、本来的には強制わいせつや侮辱罪に該当するような事例についても、犯罪化できないという事態に至っており、厳罰化の流れが処罰回避をもたらした結果だが、この点は刑事政策的な難しさを内包していると言うことができる。

 「差別禁止は表現の自由と抵触する」というのは神話に過ぎず、両者は全くレベルの異なる問題であることを認識する必要がある。差別については、先ほど例示した差別の態様別に対策していく必要がある。また、注意しなければならないのは、これを作ったから解決すると言ったような万能な解決策はないということ。

 なお、会場との質疑では、身分犯としての規制のあり方について、また、メディアと禁止・規制法制の関係についてなど、議論が深められました。